西ローマ帝国の滅亡

西ローマ帝国の滅亡
ローマ帝国の分裂
  • 西ローマ帝国
  • テトラルキア
  • コンスタンティヌス1世
  • コンスタンティヌス1世2
  • 西ローマ帝国の滅亡
  • ホーム >> 西ローマ帝国の滅亡


    西ローマ帝国の滅亡

    西ローマ帝国の滅亡
    ローマ征服と西ローマ帝国の滅亡
    408年にスティリコが没すると、ホノリウス帝が親政を執り、423年に没するまで帝位に就いていたものの、その治世は蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入と帝位簒奪者とが相次いだ。
    410年に、紀元前4世紀のガリア人の侵入以来、初めてローマが掠奪される。
    西ローマ帝国において、簒奪者たちによって一貫して引き起こされた不安定状態は、蛮族にとって征服の手助けとなり、5世紀になると蛮族が帝位簒奪者に成り果てた。
    475年には、かつてアッティラの腹心だったオレステスが、ユリウス・ネポス帝をラヴェンナから追放し、わが子ロムルス・アウグストゥルス(正式にはロムルス・アウグストゥス。
    アウグストゥルスは小アウグストゥスの意)が皇帝であると宣言したのである。
    いくつかの孤立地帯において西ローマ帝国の支配が続いたものの(例:執政官シアグリウス支配下のガリア北西部、アウレリウス・アンブロシウス支配下のブリタニア)、西ローマ全域における帝国の支配権はとうに失われていた。
    476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害、ロムルス・アウグストゥルス帝を退位させて帝位のしるしをコンスタンティノポリスの東帝ゼノンのところに送り返し、自らはゼノン帝の宗主権の下のイタリア王として立った。
     
    最後の皇帝
    一般には、西ローマ帝国は、476年9月4日にオドアケルがロムルス・アウグストゥルス帝を廃した時に滅んだとする。
    しかしながら、事態はそう簡単でも明瞭でもないのである。
    オレステスによって追放されたユリウス・ネポス帝は、まだダルマチアの西ローマ帝国の残存領土を支配しており、引き続き西ローマ帝国全体の統治権の保持を宣言していた。
    ネポスは、東帝ゼノンや、ガリアにおけるソワソン管区(西ローマ帝国の飛び地)の維持に腐心していた将軍シアグリウスからも、正当なる西帝として認知されていた。
    オドアケルは自らをイタリアの支配者と宣言し、東帝ゼノンと交渉を始めた。
    ゼノンは結局オドアケルをローマ帝国のパトリキとして認め、イタリアの副王として受け入れたが、オドアケルがネポスを西帝として公式に承認すべきだとも主張した。
    オドアケルは譲歩して、ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。
    だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。
    オドアケルは主権を決してネポスに返さなかったからである。
    ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を征服してしまう。
    シアグリスも486年にフランク族に敗れるまで、ガリア北部でネポス帝の名で貨幣を鋳造した。
    しかしながら、一般の西洋史ではユリウス・ネポスはたいてい忘れられており、ロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及されるに過ぎない。


    テオドリック

    テオドリック
    ローマ帝国再統一の最後の希望は493年に訪れた。
    この年オドアケルが、テオドリック大王に掃討されたからである。
    テオドリックは、帝国の西側、特にローマ市を征服すべく、東ローマ皇帝ゼノンに徴募されていた。
    テオドリックは東ローマ皇帝に従属し、その副王に任ぜられていた。
    しかし政治的には自立していた。
    テオドリックが526年に没したとき、西ローマはもはや東ローマとは別物になっていた。
    西側はすっかり蛮族が群雄割拠する地となったのに対して、東ローマは蛮族を斥けてギリシャ化していった。
    東ローマはその後たびたび西ローマの遺領を征服し直そうと努めたが、往年のローマ帝国の版図を再現するには至らなかった。
     
    東ローマ帝国による再統一
    東ローマ帝国は西ローマ帝国の滅亡の後も幾度か、蛮族によって占領されていた西ローマの故地を奪還しようとした。
    最大の成功は、ユスティニアヌス1世の二人の将軍、ベリサリウスとナルセスが535年から545年に行なった一連の遠征である。
    ヴァンダル族に占領された、カルタゴを中心とする北アフリカの西ローマ領が東ローマ領として奪回された。
    遠征は最後にイタリアに移り、イタリア全土と、イベリア半島南岸までを征服するに至った。
    ユスティニアヌス1世はテオドシウス1世から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝の地位に就いたのである。
    当時はこれでローマ帝国が救われたかのように思われた。
    しかしながら、蛮族の影響は、すでに経済的にも文化的にも、ローマのかつての属州に深すぎる損害を与えていた。
    これらの土地は、保持するにはひどく経費がかさんだ上に、これらの地域における蛮族の侵入と人口増加は、帝国を一つにまとめていたローマの文化やアイデンティティを破壊、もしくは大きく損なっていたのである。
    ユスティニアヌスによる征服戦争はこれをさらに助長し、イタリアは荒廃してしまった。
    また、いわゆるローマ市民と元老院(SPQR)は、この戦乱の中でほぼ死に絶えてしまった。
    一説には東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、人口はわずか500人ほどしか残っていなかったという。
    そして戦乱の荒廃に酷い重税が追い討ちをかけ、東ローマは完全にイタリアの反感を買った。
    古代ローマは、王制から始まり共和制を経て帝政へと移行しており、古代ローマ建国当時から皇帝が存在していた訳では無く、古代ローマのアイデンティティは市民と元老院が継承していたと言ってもよかったのだが、そのほとんどが失われてしまったのである。
    東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の後にも存続したものの、その後は財政破綻と宗教対立、サーサーン朝との紛争に苦しめられ、8世紀以降は新興勢力イスラム帝国やスラヴ人などによって多くの領土を失い、一時はイスラム軍に首都コンスタンティノープルを包囲されるまでになってしまった。
    このため、歴代皇帝は主にバルカン半島とアナトリアを中心とした地域の防衛に集中せざるを得なくなり、軍事力を東方のイスラムや北方のスラヴ人対策に割かねばならなくなってしまったのである。
    さらにギリシア語圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西方の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は競争関係に入った。
    ユスティニアヌス1世によって回復された西方領土は、彼の死後には急激に喪われていった。
    ただ、東ローマ帝国が西方における覇権を完全に喪失したわけではない。
    東ローマ帝国は8世紀半ばまでラヴェンナおよびローマ、さらに11世紀まで南イタリア(マグナ・グラエキア)という残存の西方領土を領有し続けた。
    また、12世紀のマヌエル1世のようにイタリア遠征を行って西ローマ領を奪回しようと試みた皇帝もいたが、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかった。


    遺産
    遺産
    西ローマ帝国がばらばらになるにつれて、属州を支配におさめた蛮族の将軍が、ローマの数々の法規や伝統を覆そうと、できる限り頑張った。
    これらの蛮族はすでにキリスト教化していたが、たいていアリウス派の信者だったのである。
    彼らも早晩カトリックに改宗し、ローマ化していた地域住民の忠誠と同時に、強力なカトリック教会の認知と支持を得ようとした。
    また、当初は部族の掟にしたがっていたが、徐々にローマ法に感化され、次第にそれを用いるようになった。
    ローマ法、とりわけユスティニアヌス1世の勅命で編纂された『ローマ法大全』は、近代の大陸法の基礎となった。
    対照的に英米法(コモンロー)は、古いイギリス法に基づいている。
    ラテン語は死語になってしまったが、言語として消え去ったわけではない。
    俗ラテン語が蛮族の言語と混じり合って、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、ロマンシュ語といった現代のロマンス諸語の起源となった。
    また英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。
    ラテン語の「純粋な」かたちはカトリック教会において余命を保ち(ミサの挙行では1970年までラテン語が使われた)、多くの国々でリングワ・フランカとしての役割を果たした。
    過去においては論文や理論書の執筆にラテン語が使われており、今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されている。
    ちなみに学名のほとんどがラテン語である。
    ラテン文字は、J、K、W、Zが付け足され、文字数が増えた。
    ローマ数字は(たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいて)依然として使われているものの、ほとんどがアラビア数字に取って代わられた。
    単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。
    フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、800年に教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠された。
    これが神聖ローマ帝国の由来であり、フリードリヒ1世やフリードリヒ2世は「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執し、カール5世はヨーロッパと新大陸にまたがる世界帝国の盟主となった。
    東ローマ帝国が滅びると、モスクワ大公は全ルーシ(ロシア)のツァーリを称し、「第3のローマ」の皇帝を自任するようになった。
    これだけでなく、東ローマを滅亡させた当の(しかもキリスト教国ですらない)オスマン帝国のスルタン(たとえばメフメト2世やスレイマン大帝)は、(コンスタンティノポリス総主教を庇護することにより)自分をローマ皇帝と主張した。
    しかし、ローマ帝国の再生の目論見に成功した者は誰一人としていなかった。
    西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。
    カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、5世紀後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。
    蛮族が侵入するにつれて多くの改宗者を生み出すと、中世の中ごろ(9世紀〜10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。
    西ローマは、帝国として倒れてからも、ゲルマン人やスラヴ人に最終的に勝利し、これらを圧倒した。
    教会に援助された宣教師が北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。
       

    東ローマ帝国
    東ローマ帝国
    東ローマ帝国(ひがしローマていこく、395年 - 1453年)は、 東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、オスマン帝国によって滅ぼされるまでの1000年以上にわたって存続した帝国。
    ビザンティン帝国、ビザンツ帝国のほか、中世ローマ帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国とも呼ばれるが、これらの名称はどれも後世の人間による呼称であり、当時の政府や住民は自らの国を単にローマ帝国と称していた。
    首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ領イスタンブル)。
     
    名称
    しばしば、「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのかという議論があるが、当の帝国政府や住民は自国を単に「ローマ帝国(ギリシア語:Βασιλε?α των Ρωμα?ων, Basileia t?n R?mai?n)」と称しており、彼らが「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない。
    帝国の一般民衆は、自国を「ローマ人の土地(Ρωμαν?α, R?mania)」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人(?λληνε?, Hell?nes)」ではなく「ローマ人(Ρωμα?οι, R?maioi)」を自覚していた。
    「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。
    これらの通称はあくまでも古代から1453年まで続いたローマ国家の一時期を指す呼称で、以下に述べるように、いわゆる「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いが顕著であるため便宜上用いられているにすぎない。
    なお、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanzによるもので、いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。
    日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。
    カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。
    例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving von Russland )の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。
    ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。
    このように東ローマ帝国はその他の欧州諸地域では独自の立場からさまざまに呼ばれてきた。
    しかし、西欧におけるこれらの議論に関しては、彼らが東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立してきた経緯や、議論がなされる中で東ローマ帝国の主張が彼らの価値観によって相対化されてきたことを勘案する必要があろう。
    彼らにとっては、カール大帝とその後継者たちや神聖ローマ帝国の皇帝こそが「ローマ皇帝」だったのである。
    このような考え方に基づく呼称は、日本における呼称として適切・中立的でないとする見解もある。
    この立場は日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。
    この呼称はなかなか普及しなかったが、近年、学校教育における教科書において採用されようやく一般の読書人にも知られるようになった。

    逆援助
    概要
    初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。
    また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。
    しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。
    8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。
    領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。
    「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、7世紀には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。
    これらの特徴から、大阪市立大学教授の井上浩一は、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評している。
    前述の「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
    9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。
    11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。
    11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。
    その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。
    文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。
    そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
    日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。
    また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
    どのような援助が好ましいのか 逆援助に関して考えてみよう。

    Yahoo!検索