西ローマ帝国

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    西ローマ帝国

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    反乱と暴動、政治への波及
    平時には、首都ローマから帝国を統治することは比較的容易であった。
    ときには反乱の兆しが見られたり、また実際に起こりもしたが、軍団長や属州総督は、個人的なカリスマや信頼に賄賂を付加することで軍団兵の忠誠を得るのが常だった。
    征服された部族は叛逆するものであり、征服された都市は蜂起するものである。
    軍団兵は国境を中心に配備されるので、反乱の首謀者は、常態においては1、2個の軍団を指揮するのが限界であった。
    体制派の歩兵隊は、帝国のよその土地から動員され、仕舞いには叛逆者と血で血を洗う結果となった。
    このような顛末は、反逆者が激しい軍事経験を経ていないような、狭い地域の先住民による暴動の場合に、いっそう起こりやすかった。
    皇帝が軟弱だったり無能だったり、憎まれたり、各地で蔑まれたりしていない限り、こうした謀叛は、局地的で単発的な出来事でしかなかった。
    しかしながら、第1次ユダヤ戦争のように、反乱や暴動から本当の戦争が起きた時、戦局は完全に、そして恐ろしいほどに様変わりした。
    本格的な戦役においては、ウェスパシアヌスのような将軍に統御された軍団が、より多く投入されたのである。
    したがって、偏執的な皇帝か賢帝ならば、指揮官の忠誠を確かなものとするために、将軍の身内の数人を人質にとるのだった。
    実際にネロ帝は、ウェスパシアヌス将軍から、幼子ドミティアヌスと、オスティア総督だった義弟クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスを人質にとっている。
    ネロの治世は、(後の皇帝)ガルバに抱き込まれた親衛隊の蜂起によって、やっと終わりを告げた。
    親衛隊の存在は「ダモクレスの剣」であった。
    親衛隊は、忠誠心を買収することができたので、段々と貪欲になったからである。
    親衛隊の例に続いて、国境警備隊もまた次第に内戦に加わっていった。
    西方において主な敵は、ライン川やドナウ川の向こうの蛮族だったと言ってよい。
    アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。
    しかし蛮族は、互いに抗争させておくために平時は野放しにされていたし、あまりに数多くの部族に分かれていたために、深刻な脅威とはならなかった。
    一方で、東方にはパルティアがあった。
    パルティアは、遠すぎて征服することはできなかった。
    パルティアの侵略に立ち向かい、たいていは撃退することができたものの、脅威そのものをなくすことは結局できなかった。
    ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて、襲撃と掠奪を行なった。
    二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。
    地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。
    西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。
    しかし、戦時に両方の国境を同時に統治することは難しかった。
    もし皇帝が東の国境近くにいれば西方にいる野心的な将軍が反乱を起こすチャンスが高まるし、皇帝が西にいれば逆もまた成り立った。
    皇帝は軍隊を統治するためにその近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。
    この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。
     
    西ローマ帝国における経済の不振(産業の空洞化)
    ローマとイタリア半島では、産業と貨幣の移転が始まると、経済の失速が始まった。
    紀元2世紀初めまでにイタリア経済の不振は、トラヤヌス帝やハドリアヌス帝のように、属州出身の皇帝の場合に顕著であった。
    経済問題は深刻化し、頻発するようになった。


    3世紀の危機

    3世紀の危機
    軍人皇帝時代
    235年3月18日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。
    今日では軍人皇帝時代として知られている。
    パルティアに起こったサーサーン朝ペルシアは東方におけるローマ帝国の脅威となった。
    その脅威は増してウァレリアヌス帝は259年にシャープール1世の捕虜となった。
    彼の最も年上の息子で相続人でもあるガリエヌスは東方の戦線で戦い勝利を収めた。
    ガリエヌスの息子が、サロニヌスと前法務官シルウァヌスであり、アグリピナ植民地(いまのケルン)で地域の兵の忠誠心を維持すべく抵抗をしていた。
    にもかかわらず属州ゲルマニアの総督マルクス・カッシアヌス・ラティニウス・ポストゥムスは反逆し、アグリピナ植民地を激しく攻撃し、サロニヌスと法務官を殺した。
    彼らはガリア帝国として知られる独立政権を樹立した。
    その首都はアウグスタ・トレヴェロルム(いまのトーリア)で、この政権は急速にゲルマン人とガリア人の統制を拡大していきヒスパニアやブリタンニアの全域に及んだ。
    この政権は独自の元老院を有し、その執政官たちのリストは部分的に現在に残っている。
    この政権はローマの統治機構、言語、そして文化を維持し、他のローマ人よりよくゲルマン人と戦った。
    しかし、クラウディウス・ゴティクスの治世に(268年−270年)、大きな広がりを見せたガリア帝国はローマの支配下に戻った。
    ほぼ時を同じくしてパルミラの女王ゼノビアによって東方が掌握されてしまう。
    272年、アウレリアヌス帝はパルミラを陥落させて帝国の領土を取り戻した。
    東方が穏やかになったことで彼は注意を西方に向けて、翌年ガリア帝国を陥落させた。
    これはアウレリアヌスとガリアのリーダーのテトリクス1世及びその息子のテトリクス2世との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。
    アウレリアヌスは彼らの命を助けて、反乱した二人にイタリアでの重要な地位を与えた。


    軍人皇帝
    軍人皇帝
    軍人皇帝(ぐんじんこうてい)とは、3世紀の危機と呼ばれた時期に主に配下の軍事力を背景に廃立された諸皇帝をいう。
    特に、235年-284年の間、ローマ帝国において、軍人皇帝が乱立した時代を軍人皇帝時代(ぐんじんこうていじだい)と称する。
    具体的には、アレクサンデル・セウェルス暗殺後に即位したマクシミヌス・トラクスから、ディオクレティアヌスに討たれたカリヌスまでの諸皇帝を指す。
    元老院が容認した皇帝だけでも、前半の33年間(235年-268年)に14人の皇帝が擁立され、結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、これによりローマ帝国は弱体化した。
     
    原因
    古代ローマにおいては共和政の時代より、国家の最高指導者がすなわち前線に立つ軍司令官であった。
    共和政の時代においては、2人の執政官がこの役目を担った。
    執政官が2人であることからひとりは軍司令官として前線に赴いても、もうひとりの執政官が内政を執ることができ、また2人の執政官が同時に軍司令官として前線に立たねばならない場合にも、代わって内政を担当するのは誰であるかの序列も決まっていた。
    1年の任期があった執政官は、軍司令官として無能な者であれば再選はされず、このシステムは問題無く機能した。
    しかしながら帝政以降、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムには弊害が見られるようになったが、終身の存在である皇帝は、おいそれと更迭ができる存在ではなく、軍司令官として無能さを露呈した皇帝を排除するには、叛乱・クーデター・暗殺という非合法な強硬手段に出る以外に選択肢が無くなってしまったのである。
    また軍司令官である以上、戦死・敵の捕虜になるという事態は、当然のこととして起こり得るものであり、その度に皇帝を選び直さなくてはならない事態が生じた。
    また選出手段が決まっていた(市民集会の選挙)執政官と違い、皇帝の場合は選出手段が定められておらず、これも混乱の原因となった。
    そしてこの時代に先立つカラカラ帝のアントニヌス勅令によってそれまでの税制が破綻する。
    そしての外敵の侵攻によって国土は荒廃して経済も低下、そういった悪循環が止まらない時代であった。
       

    特徴
    特徴
    特徴として、彼らは以前の皇帝とは異なり、擁立が主に軍の軍事力を背景としたクーデターによることが挙げられる。
    軍人皇帝の身分は比較的低い出自が多く、たとえば最初の軍人皇帝であるマクシミヌス・トラクスはトラキア出身の一兵士からの叩き上げであり、マクシミヌス以外にも軍人皇帝たちの多くが名乗るほどの家名や祖先は持たず、彼らの擁立は軍隊の経歴により、その影響力もまた兵士たちのみであった。
    また元老院はこの時代には軍隊の推挙を受けた指導者を追認するだけの存在となり、よって地方の軍隊によって推挙され元老院の認定のないまま皇帝を僭称する軍司令官が乱立した。
    前線で戦う兵士たちにとって、軍司令官として有能な者を皇帝に選ぶのは死活問題であり、元老院としても国家防衛を皇帝に委ねる以上、これを承認する以外に無かったのである。
    しかし軍人皇帝たちのほとんどはローマ帝国国境の軍司令官であったため、帝位の交替があるたびに国境防衛に空白が生じ、防衛能力の弱体化を招いた。
    そのためゲルマン人の侵入を容易にし、結果としてアウレリアヌス帝が再びローマに城壁を築くほどであった。
    皇帝の資格は配下の軍事力とともに、兵士によって擁立されるため兵士を雇う能力にあり、これがなくなると兵士の支持をまたたく間に失い、剣で取った権力を剣によって失うことになった。
    このたびに先人のローマ人たちが築いてきた数々の公共事業?ローマの街道やローマ領内での安全性が劣悪になった。
    また、それぞれの戦線において、兵士たちがそれぞれ皇帝を擁立し、それら皇帝候補者の争いによる内乱も生じた。
    284年、プラエフェクトゥス・プラエトリオであったディオクレスが帝位に就くと、ディオクレティアヌスと名を変え、帝国のシステムを改革する。
    彼はまた帝国を4分割するというテトラルキアの制度を作り上げた。
     
    後代への影響
    軍人皇帝時代は皇帝の背景には軍事力が欠かせない要素ではあったが、その後の皇帝には軍事色が薄くなっていく。
    ドミナートゥスへと帝政を転換させたディオクレティアヌスやコンスタンティヌス1世などは皇帝権力を強化し、自らも兵を率いたが、その後は軍務は例えばスティリコのようにマギステル・ミリトゥム(軍司令官)が行い、彼らが帝国の運営の担い手となってゆく。
    そして西ローマ帝国では皇帝はホノリウス帝のように権威色が帯びるものの実際の政治的主導権は一層薄い存在となっていき、最後には傭兵隊長のオドアケルによって西ローマ皇帝は廃されてしまうことになった。
    いっぽう、東ローマ帝国ではコンスタンティヌス1世以来の強い皇帝権力が維持・強化され、ユスティヌス1世のように軍出身の皇帝が即位したり、7世紀のヘラクレイオスや10世紀のバシレイオス2世などのように親征を行う皇帝もいた。

    熟女
    テトラルキア(四分割)
    3世紀の危機の間、275年のアウレリアヌスの死から10年後のディオクレティアヌスの即位までに少なくとも8人の皇帝が暗殺されたが、外的な国境争いはほぼ平穏であった。
    ディオクレティアヌスのもと、286年テトラルキアを通じてローマ帝国 の政治的分割が始まり、彼はマクシミアヌスを正帝として西部を与え、コンスタンティウス・クロルスを副帝に任じた(ディオクレティアヌス自身は東の正帝になった。
    副帝はガレリウス)。
    このシステムは効果的に、帝国を4つに分割し、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、ローマに対し分離した首都を作った。
    西では、首都はマクシミアヌスのメディオラヌムとコンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルムであった。
    305年5月1日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が昇格した。
     
    テトラルキア
    テトラルキア(ギリシア語:Τετραρχ?α, Tetrarkhia、ラテン語:Tetrarchia、「4人の統治」の意)は、権力を4人で分けた政治体制一般を意味する。
    本来は、ギリシアのテッサリアにおける四分権制を意味していたと思われる。
    歴史上、実現することはきわめて希有である。
    最も有名なテトラルキアは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが創始し、293年から313年まで続いたものである。
    このときのテトラルキアは、「3世紀の危機」の解決とローマ帝国の安定回復を目的としていた。
    本項では、このテトラルキアについて述べる。
     
    テトラルキアの創始
    テトラルキア創始に先立ち、そのきっかけのひとつとして、皇帝ディオクレティアヌスは将軍マクシミアヌスを共同皇帝に取り立てた(デュアルキア、2分割支配)。
    マクシミアヌスは、285年に副帝(カエサル)に任命され、翌286年には正帝(アウグストゥス)に即位した。
    ディオクレティアヌスは帝国東部の問題に、マクシミアヌスは西部の問題に、それぞれ対処した。
    しかしディオクレティアヌスは、住民問題と軍事問題の解決にはどちらにもより多くの力を注ぐ必要があると考えて、293年に、マクシミアヌスの同意を得て、それぞれの正帝の補佐役として副帝を加えた。
    東方副帝ガレリウスと西方副帝コンスタンティウス・クロルスである。
    2人の正帝は20年の任期で引退するとされており[要出典]、2人の副帝は各正帝の後継者であった。
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