コンスタンティヌス1世2

コンスタンティヌス1世2
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    コンスタンティヌス1世2

    コンスタンティヌス1世2
    晩年まで(326年 - 337年)
    326年、前妻の子である長男クリスプスがコンスタンティヌスの2度目の妻ファウスタと密通したとの密告を名目に、コンスタンティヌスはクリスプスを処刑した。
    数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとの名目でファウスタも処刑された。
    神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、コンスタンティヌスは337年に亡くなる少し前に洗礼を受けた。
    当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった。
    ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、異端とされたアレイオスを信奉するアリウス派でありながらも司教の座を保っていたニコメディアのエウセビウスに説得されたためだった。
    キリスト教に改宗したにもかかわらず、彼は神格化された(これは、キリスト教に帰依した後の他の皇帝も同様である)。
    彼の遺体はコンスタンティノポリスに運ばれて聖使徒教会に埋葬された。
     
    後継者
    コンスタンティヌスの後継者には、彼とファウスタの間に生まれた息子3人、すなわちコンスタンティウス2世、コンスタンティヌス2世とコンスタンス1世がなった。
    コンスタンティウスの支持者によって多くの血縁者が殺害された。
    彼には2人の娘コンスタンティアーナとヘレナがおり、ヘレナはユリアヌス帝の妻となった。


    コンスタンティヌス1世とキリスト教

    コンスタンティヌス1世とキリスト教
    コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教皇帝として有名である。
    それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。
    そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。
    5世紀の歴史家ソゾメンによると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。
    ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。
    コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。
    コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者バートランド・ラッセルを始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。
    伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。
    伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。
    なお、この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。
    ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。
    なお、コンスタンティヌス1世を正教会は亜使徒聖大帝コンスタンティンとして記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、日本正教会の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している。
      

    コンスタンティヌス1世の功罪
    コンスタンティヌス1世の功罪
    名君として称揚されることの多いコンスタンティヌス1世ではあるが、それらは多分に後世のキリスト教的史観による。
    例えば降伏したリキニウスや、リキニウスとの戦いの中で優れた才覚を示し、兵士たちに絶大な人気のあった長男クリスプスをローマ再統一後に突如幽閉して殺したことなどは、ほとんどのキリスト教歴史学者からは無視される傾向にある。
    「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。
    また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。
    これは後世の封建制の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。
    さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い宦官もはびこるようになる。
    またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したのも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。
    西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。
    また、「カエサルのものはカエサルに」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。
    キリスト教は東洋における儒教のような役割を果たしたとされる。
    コンスタンティヌス1世は第1ニカイア公会議でアタナシウス派とアリウス派のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、コンスタンティヌス1世自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。
    ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。
       

    再分割
    再分割
    ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されたが、コンスタンティヌス1世が337年に死去すると、3人の息子たちの間で内乱が勃発し、帝国を3分割することになった。
    西ローマは340年に再統一され、帝国全土の再統一は、353年にコンスタンティウス2世によって果たされた。
    コンスタンティウス2世は自らの権力のほとんどを東ローマに集中させたので、最初の東ローマ皇帝と見なされることもある。
    その支配のもとで、コンスタンティヌス1世によって新たな首都とされたばかりのコンスタンティノポリス(もとのビュザンティオン)は、ローマ帝国の首都として完全に整備された。
    361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、コンスタンティウス・クロルスの孫で、コンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが即位した。
    ユリアヌスが、先帝のサーサーン朝ペルシアとの対戦を継続中に363年に戦死すると、ヨウィアヌスがその後を襲ったが、その治世は364年までしか続かなかった。
     
    最後の分割
    皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。
    364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝国を再び分割し、東側の領地を弟ウァレンスに譲った。
    東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、安定した時期がなかなか実現しなかった。
    西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、異教徒が引き起こす政治的な反撥であった。
    379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。
    そして最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。
    388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝を僭称すると、グラティアヌスの息子である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。
    391年にテオドシウス1世が、異教の禁止を西側に発令し、キリスト教化を施行すると、392年にフランク族で異教徒の指揮官(en:magister militum)アルボガステスがウァレンティニアヌス2世を暗殺した。
    エウゲニウスという名の元老院議員が西帝として即位するも、394年にテオドシウス1世に倒された。
    テオドシウス1世は、395年に崩御するまでの1年間、東西の両方を統治した。
    彼以降、ローマ帝国の東西を単独の統治者が支配する機会は、ユスティニアヌス1世による短期間の復興を除いて、絶えることになる。
    一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の最後の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。
    西ローマは、(摂政スティリコに操られた)皇帝ホノリウスのもとで一時的な安定期を迎えるも、408年にスティリコが死ぬと、その期間も終わった。
    それから2つに分かれた帝国は、文字通り別々の道を歩んだ。
    東ローマがゆっくりと建て直しに入って地固めを進めていったとき、西ローマは完全にばらばらになろうとしていた。

    不倫
    経済とのかかわり
    上述の通り、既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマが経済的な下降線を辿っていった。
    中央の権力が弱まると、国家として国境や属州を制しきれなくなり、致命的なことに、地中海をも掌握できなくなった。
    歴代のローマ皇帝は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、ヴァンダル族はとうとう北アフリカを征服してしまう。
    これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。
    ローマ帝国は帝政期以前よりも、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。
    ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。
    この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ崩壊の伏線となったのである。
    古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。
    税収が不十分では、高くつく職業的な軍団を維持することも、雇い入れた傭兵を当てにすることもままならなかったからである。
    西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。
    西ローマの諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。
    たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。
    イタリア半島の農業は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。
    経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。
    耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。
    こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。
    そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。
    これはすなわち、不幸にして、東ローマによる西ローマの建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。
    その一方で、エジプトやシリアなどの穀倉地帯を確保し、オリエントとの交易ルートを押さえていた東ローマは、とりわけコンスタンティヌス大帝やコンスタンティウス2世のような皇帝が、莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、さほどの経済的な衰微は起きなかった。
    こんど不倫旅行を計画してみたい。 不倫旅行ならどこに行くのがいいのだろうか。

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