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テトラルキア
テトラルキアの領域および首都
4人の皇帝は、ローマではなく辺境地域に根拠地を定めた。 それらの辺境地域は帝国の防衛拠点として位置づけられていた。 当時最大の脅威はサーサーン朝ペルシアであり、ほかにも蛮族たち(主にゲルマン人や、東方から他の民族に追われた遊牧民族)がいた。 防御拠点は「テトラルキック・キャピタル(4人の皇帝の都)」として知られている。 ローマ市はここに至り首都機能を喪失したが、名目的には帝国の都であり「永遠の都」であり続けた。 属州の地位に零落することもなかったが、独自の都市総督(praefectus urbis)の統治下に入ることとなった(のちにこの制度はコンスタンティノポリスでも踏襲された)。
4つのテトラルキック・キャピタル
ニコメディア
東方正帝ディオクレティアヌスの都。 現トルコ領イズミット。 アナトリア北西にあった。 バルカン方面やサーサーン朝ペルシアに対する防衛拠点であり、のちのコンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブル)とは異なる。 318年のコンスタンティヌス1世による帝国再編に伴い、最大の脅威であるサーサーン朝に面するこの領域は重要性を増した。 のちのオリエンス行政区(Oriens、東方)であり東ローマ帝国の中核都市。
シルミウム
東方副帝ガレリウスの都。 現セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ (Sremska Mitrovica) 。 ベオグラードを含むヴォイヴォディナ地方にあった。 彼の担当は、バルカン半島とドナウ川境界、イリュリクム行政区であった。
メディオラヌム
西方正帝マクシミアヌスの都。 現イタリア領ミラノ。 アルプス山脈近傍にあった。 彼の担当領域は、帝国辺縁部とイタリア、アフリカであった。
アウグスタ・トレウェロルム
西方副帝コンスタンティウス・クロルスの都。 現ドイツ領トリーア。 ローマから遠く離れた地にあった。 この地は防衛戦略上重要なライン川境界に近く、かつてはガリア皇帝テトリクス1世 (Tetricus I) が拠点としていたが、四半世紀を経てガリア行政区となっていた。
これら4都市のほか、アドリア海に面した港町アクイレイア、スコットランドとアイルランドのケルト人勢力に接するイングランド北部のエボラクム (Eboracum) (現ヨーク)もまた、マクシミアヌスとコンスタンティウスにとって重要な防御拠点であった。 地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかった。 テトラルキアはローマが4つに分裂したという状態を意味するものではない。 4人の皇帝はおのおの勢力範囲を持っていたが、それは最高軍事指揮権を主としており、自身が出陣することも頻繁にあった。 その間は各皇帝の近衛府長官や知事、総督を長とする官僚組織からなる行政府が執政を代行していた。
西方では、正帝マクシミアヌスはアドリア海と流砂の西方に位置する属州を管轄した。 副帝コンスタンティウスはその領域内でガリアとブリタンニアを統括した。 東方では、正帝ディオクレティアヌスと副帝ガレリウスの間に明確な権力区分はなく、柔軟に運用されていた。 キリスト教徒の作家ラクタンティウス (Lactantius) とアウレリウス・ウィクトル (Aurelius Victor) (約50年後の著述で信頼性は低い)をはじめとする幾人かの著述家は、4人の正副帝には確固たる勢力区分があったと述べているが、これはテトラルキアに対する理解が不十分であったためと思われる。
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皇帝の肖像
テトラルキアにおいては、権力は分担されたが、帝位を持つ4人の皇帝の肖像が公開されるときは、統一帝国(patrimonium indivisum)の体裁を成す形に入念に整えられた。 3世紀の危機の後には、これが特に重要となった。
公式な肖像画では、4人の皇帝は全く同じに描かれた。 テトラルキアの時代に入ってから鋳造されたコインにはどの皇帝も同じ容貌に描かれ、ただコイン上の銘刻だけが、それが4人の中の誰であるかを示していた。 現在はヴェネツィアのサン・マルコ広場の壁にはめ込まれている斑岩製彫刻(本項冒頭の画像参照)でも、4人の皇帝は全く同じ容貌で、同じ軍服を身に着けている。
軍事的な成功
「3世紀の危機」において皇帝が直面した問題は、自身が軍隊の指揮できる場所は、常に国境周辺の一箇所に限られるというものであった。 アウレリアヌス帝やプロブス帝は何千マイルもの距離も厭わず、軍隊を引き連れて戦地間を移動したが、この方策は理想的とはいえなかった。 また、皇帝が不在の地域で次位の将軍に権限を委任することもあったが、これには戦いに勝利した将軍がそのまま皇帝を名乗って敵対するという危険性があり、時にこれは現実となった。
テトラルキアでは、2人が正帝で2人が副帝とはいうものの、帝位を持つ4人の役割と権限は同じで、基本的に同じ地位にあった。 デュアルキア(2分割支配)とテトラルキアでは、問題地域の近くに常時1人は皇帝がいるため、国境周辺の一領域に限らず、同時に複数箇所で皇帝自身が軍を指揮できるようになった。 これにより、重要な軍事的成功を収めることができた。 3世紀には、ローマはサーサーン朝ペルシアに敗北を重ねており、296年にも敗北したが、298年にはガレリウス帝が逆転してナルセ1世率いるペルシア軍を撃破した。 この戦勝ではペルシア皇帝の一族を捕虜とし、相当な量の戦利品を獲得したうえ、かなり有利な和平条約の締結に成功して、その後数10年にわたる平和をもたらした。 同様に、コンスタンティウス帝もブリタンニアにて帝位を簒奪したアレクトゥス (Allectus) を破り、マクシミアヌス帝はガリアを平定し、ディオクレティアヌス帝はエジプトにてドミティウス・ドミティアヌス (Domitius Domitianus) の反乱を打ち破った。
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テトラルキアの傾壊
混乱と崩壊
305年、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは20年の統治を終え、ともに退位した。 同時に副帝であったガレリウスとコンスタンティウスは正帝に昇格し、新たにマクシミヌス・ダイアがガレリウスの副帝(東方)に、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスがコンスタンティウスの副帝(西方)に選任された。 ここに第2のテトラルキアが形成されたのである。
しかしこの制度は間もなく瓦解した。 306年、西方正帝コンスタンティウスが死ぬと、東方正帝ガレリウスは西方副帝セウェルスを正帝とした。 一方、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス(後の1世、大帝)も、軍に推戴され父の後継者として西方正帝を宣言した。 同時にマクセンティウス(マクシミアヌスの息子)は新秩序から疎外された身分を不満とし、セウェルスを退位させ、307年には殺害した。 その後、マクシミアヌス・マクセンティウス父子も正帝を宣言した。 すなわち、308年にはガレリウス、コンスタンティヌス(1世)、マクシミアヌス、マクセンティウスの4人が正帝を名乗り、副帝は東方のマクシミヌスのみという状況になった。
308年、元々の東方正帝ガレリウスは先帝ディオクレティアヌスと(同じく先帝であるはずの)マクシミアヌスを伴い、ドナウ川河畔のカルヌントゥム (Carnuntum) でいわゆる「帝国会議」を開催し、リキニウスが西方正帝でコンスタンティヌス1世はその副帝であるという合意を得た。 一方、東方ではガレリウスとマクシミヌスが引き続き正帝と副帝に就いた。 一度は復位を宣言したマクシミアヌスは再び引退し、その子マクセンティウスは簒奪者とされた。 だが、この合意がのちに事態を一層悪化させることとなった。 308年の時点で皇帝の位から追われたマクセンティウスは、イタリアとアフリカを事実上支配していた。 また、コンスタンティヌス1世とマクシミヌスの両者(ともに305年から副帝)は正帝としてのリキニウスの幕下に入る気は毛頭持ち合わせず、その地位を認めようともしなかった。
コンスタンティヌス1世とマクシミヌスの両者に「正帝の息子(filius Augusti)」(副帝の別称であり同時に正帝位の継承権も意味した)という名目的な称号を与えることで懐柔しようという試みは失敗に終わり、309年には両者とも正帝と認めざるを得ない状況となった。 こうして4人の正帝が互いに反目しあっている状態が生まれたが、これはテトラルキアにとって好ましい状況とはいえなかった。
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テトラルキアの終焉
309年から313年の間に、皇帝の座を狙った有力者の多くが、内戦などで表舞台から去ることとなった。 310年、コンスタンティヌス1世は、マクシミアヌスを絞首台に送ることに成功した。 311年には東方正帝ガレリウスが死去、「簒奪者」マクセンティウスは、312年にミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス1世に敗れ、戦死した。 313年、東方副帝マクシミヌスはリキニウスと戦って敗れ、タルススで自害した。
結果として、313年には西方正帝コンスタンティヌス1世と、東方正帝リキニウスだけが残った。 324年にはコンスタンティヌス1世がリキニウスを破り、帝国を再統一。 自ら「唯一の正帝」を宣言し、ここにテトラルキアは完全に終焉を迎えた。
テトラルキアの遺産
このように、テトラルキアは313年に幕を閉じることになったが、帝国に様々な影響を残した。 帝国を4つに分ける地域区分は近衛軍管区の形式を取って存続し、それぞれ親衛隊長官(近衛軍団長)によって統括されることとなった。 近衛軍管区はさらに細かい行政区に分割され、属州を跨がる軍司令官として任命されたマギステル・ミリトゥムにも影響を与えた。
従来から存在していた、帝権を複数の皇帝で分けるという「コンソルティウム・インペリイ (Consortium imperii) 」の概念、および皇帝就任への協力者が帝位継承者として任命されるという観念(これは出生、または養子縁組による帝権の世襲と対立しかねない観念であるが)は、こののちも幾度となく現れることとなる。
権力二分、東西分権といった発想は幾度となく現れ、テオドシウス1世の死後、結果的に東西ローマへの恒久的な分割へと帰着した。 形式的には帝国が完全に二分されたわけではないことに留意する必要はあるが、西ローマ帝国の滅亡によって東ローマ帝国(第2のローマであり唯一の直系継承者)のみの存続に至るまでは、東西の皇帝は全く合法的にその皇帝権力を行使し得たのである。
小規模なテトラルキア
古代のテトラルキアにテッサリアとガラティア双方で行われたものがある。
ローマ統治下のパレスチナ・ユダヤでは不規律な体制がとられていた。 ヘロデ大王は3人の息子をガリラヤ王国各所に分封し、人々はこれをテトラルキアと呼んだ。
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コンスタンティヌス
西帝コンスタンティウス・クロルスが306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。 その後、数人の帝位請求者が西ローマの支配権を要求して、危機が訪れた。 308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、リキニウスという名の新参者とで、権力を分けることにした。 だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。 東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。 コンスタンティヌスが324年9月18日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。
テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。 非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割されるようになった。
最近の人妻は孤独で寂しいのです。だから 人妻の本当の内面を見ましょう。
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